昭和43年4月18日 朝の御理解
中村良一
信心は、家内に不和のなきが元なり。信心は、家内に不和のなきが元なりと。仲ようして行けという事なんですね。これは、家庭だけの事ではありません。信心は、友達と仲ようするという事でもあろうと思う。信心とは、隣近所と仲ようして行く事だという事でもあろうと思う。全ての仲と言うものが、いよいよ、良いものに育てられて行かなければなりません。もう、初めの間は、とても仲が良かったけれど。段々、お互いの、欠点が出て参りますと、鼻についてくる。そして、けんか別れになるという様な例も、とても多い事です。信心は、家庭に不和のなきが元と言う事は、決して、家庭と言うだけの事じゃありません。みんなとの仲の事です。仲ようするという事は、不和の無いという事は、仲ようする事ですけれども。お互いがその、撫でたり、さすったりし合うという様な事じゃないのです。問題はね、お互いの、一人一人の心の中に、この和の心を、頂いておるか、いないかと。和の心という事は、お互いの心の中に、真があるかないかという事なんです。親が子を思う、子が親を思う。これは真である。ですから、親子の仲は、たとえ、形の上で、口争いをしてもです。心の中には、すぐに、心の中には、通うものがあると同時に、すぐに、それが、欠けてしまうでしょう。それは、親が子を思う、子が親を思うというのは、あれは、真だからです。
着かず離れずという様な事を申しますですね。私は、この、仲を育てるという事にはね。こういう、つかず離れずといった様な心掛けが大事じゃないかと思うですね。息子の嫁を貰うと、本当に、初めの間は、良か嫁後ち言うてから、褒めちぎってる。よう気が付いてくれます。本当にもう、夫婦も仲よう、親も大事にしてくれます。それが半年たち、一年たってくるようになると、その良か嫁じゃた嫁が、良い嫁になってこない。行き届かない、不親切、ね。とうとう最後には、家風に合わないといった様な事までなりかねない。いわゆる、そこのところをですね。着かず離れずという事があればね。けども、あまりにつきすぎる訳です。初めの間は、本当に、もう、いっちょん、家の嫁さんな気がつかっしゃらん。気が利かんと、言うたり思うたりしておるぐらいのところの方が、かえって、円満にいく。段々、良いのが出てくる。そして、はじめ思うとったごとなかとは、なかなか、心が良かち言うたごたる風になってくる。これはですね、人の関心を買うというか、人の喜び心を買うという事は、演出で、ある程度できる事なんです。その人の好きなものを上げるとか。けれども、そういう事で、仲ようなっていくのはね、一番、詰まらんのです。
昨日、高芝さんところの息子が、高芝さんの孫になります。ねぇ、三つでしょう。一番可愛い盛り。昨日、久し振りで参ってきました。ほんで私が、ここさん、お出でおいでち言うたっちゃ来ん。さぁ先生が、良かものば持っとるよ、何かやるよち言うたら、つーっとこっちへ寄ってくる訳です。で、私が、羊羹一本下げてきてから、羊羹をやったら、もうその、羊羹をもらう時には、ニコッと笑うてですね。もう本当にその、やっぱ、やらにゃおられんという気が致します。ですから、子供の関心を買うという事は、羊羹一本で出来る事なんですよ。からと言うて、今度、靖男君が、毎日、ほんなら、例えば参って来て、毎日羊羹やりよったら、もう、教会にはね、羊羹貰いに行くもんのごと思うです。いけないでしょうが、だから。そこに、神ながらな、一つのタイミングというか、素晴らしい、その、不自然でない、自然のそれを利用して行くという事は有難いですけれども。どうも、機嫌が悪うありなさるぎなけん、機嫌を取らんならんといった様な事じゃ。機嫌の悪かなら悪かなりに、どうした奴じゃろうかという風な思い方をせずにです。真を持って、思うておりゃ良いのです。そこから、お互いの心が、心と心が通い合うようになる。それが、本当の仲を育てて行くのです。
信心は、わが心が、神に向こうのを信心というのじゃとこう仰る。自分の心が、確かに、神様に向こうて行くという事が信心です。まぁ、変な事を言うようですけれども。私なんか、今、人間付き合いもせんならん、神様付き合いもせんならん。お付き合いが広い。もう、そのために、非常に、私は、苦境に陥る事があるです。困る事があるんです。神様とのお付き合い中に、人間と付き合わなければならん時がある。私は、家内に、何時も、言われる。あなたばっかりは、返事も何もせんで、幾ら言うたっちゃというて腹かくのですけれども。一生懸命に、神様とお話合いしよる時に、向こうから言われたっちゃ、私は分からん。何ち言うたか。あらお前、なんか、今言いよったね。私が言うこつは、いっちょん、あーた聞きなさらんち。本当ですよ。わが心は神様に向こうて行く。神様のお仲参りが出来るようになってくる。金光様のご信心の有難いのは、そこなんです。信心とは、和賀心が、神に向こうて行く、向こうのを信心というのじゃと仰る。いうならば、自分で自分の心が拝めれるようになるという事なんだ。十年と信心が続いたら、我とわが心を祭れと仰る。金光様のご信心が、本当に、十年続いたら、我とわが心が拝まれる。しかも、祭られるくらいにならなきゃいかんのです。教祖の神様は、ご自身の事、いわゆる、生神金光大神祭りというものを、月の十日に必ずなさった。それが、現在の十日の、十月の十日の教祖大祭はそれなんです。教祖の神様が、お亡くなりになった、亡くなられたから、そのお立ち日をお祭りするというのでもなからなければ。教祖の神様が、ご自分、ご自身をですね、お祭りされておる。金光大神祭りと言われておる。だから、皆さんでもです、自分で、自分の心が祭れれるようになる。そこまで、信心を進めていけれるのが、お道の信心なんです。しかも、神様付き合いが出来る。
この頃は、私の方には、天に一家が出来たち言う。親類が出来たから、神様から、降り照りの事まで、教えて頂くようになったと、教祖は仰ったんです。神様付き合いが出来る。天に、一家親類が出来た。しかも、みんなも、このようなおかげが受けられると仰っておられるように、私共は、そういうおかげを頂かせて頂くために、日々、信心の稽古をさせて頂いておる。ところが、やはり、家内もある、子供もある、お付き合いもある。そこで私は、もう、お付き合いという様なものでも、以前は、やはり、沢山付き合いを持っておったけれども。そういう信心の薄かった時代のお付き合いというものは、いつの間にか無くなっている。それがもう、私は、付かず離れずの生き方で行くからです。人間心を使うて、お付き合いをしなければならない様なお付き合いは、自分から切るのじゃない。いわゆる、着かず離れずでいくうちに、段々、こちらの事が分かってくれる人は、いよいよ、信仰、いよいよ、それが、深う交わりが出来るようになってくる。それで、いうなら、人は、段々、離れて行く。私にも、友達が無い訳じゃない。その友達付き合いなんかでも、私は、着かず離れずの生き方で行く。そすと、不必要な友達は、いつの間にか無くなっていく。そして、必要な友達だけが付いてくる。
私と、親教会の場合なんか、何時も問題になる。まぁいうならば、私は、親先生の関心を買う事ならば、もう私は、ちゃんと心得とる。親先生が、どういうお方か。どうすりゃ喜びなさるかという事は、よう知ってる。だから、そうして、もし、親先生の関心を買ったのであったら、もし、私が出来なくなったら、どうなります。そうじゃない、本当に、大坪は間違いが無い。物を持ってきたから、お供えをしたからじゃない。大坪という人間な、間違いが無いと。例えば、私の心と、親先生の心とが通う。この仲を育てて行かなければならないところに、非常に難しさがある、いうなら。ね。けれども、そこんところを、私は、ほんなら、親教会との場合でも、いわば、着かず離れずである。そういう事から生まれてくる仲。この仲ならば、絶対の仲が生まれてくると、私は確信しております。ですから、時間がかかる。けれどもです、ほんなら、短時間で出来たからというて、とても仲ようなって。もう、あれでなからなきゃならんという様になってもです。お互いが、それで、今度は、鼻についてくる様になったら、もう、それでお終いなんですから。お互いが、仲を良くするという事は、お互いが、勤めあわなければならないという事はね。形の事じゃないと、私は思う。どういう場合でもあるけれども、そういう時に、忘れちゃらなないのは、真なんです。真のある限り、私は、いよいよ、本当の意味での仲が育ってくる、出来てくる。
人から笑われても、神様から笑われちゃならん。こういう生き方で行く時にですね。やはり、人との間に、不義理が生じてくる。確かに、人間の世の中って住み難い。情に掉させば流される。地に走れば角が立つと、誰かの言葉にあった様にです。確かに、世の中は住み難い。その住み難い、その、私は、世の中をですね、着かず離れずの、例えば、生き方を覚えますとですね。情に流される事もなからなければ、地に走って角が立つ事もないような、私は、おかげが頂ける人格が出来てくるとこう思う。神様にも、不義理が出来ず、人からも信用される。いわゆる、神徳、人徳を、ね。神徳を得よ、人徳を受けよと仰る。神徳を得、人徳を受けて行かなければ、この世での幸せというものは得られない。お互いの信心は家庭に不和のなきが元という事は、信心は、自分の関係のある人達との上にです。不和の無いという事が元だと。家庭だけの事じゃない。それはね、如何にも、仲ようしておる様であっても、お互いが、人間心を出し合うて、仲ようしておるのは、これは、不和と同じこと。不和と同じ事と言うが、それは、本当の和じゃない。物やら金やら、または、特別に、例えば、努力をし合うという事。それが、仲よう見えておるだけ。お互いが、努力を、ちょっと怠ると、もうそこに不和が生じる。そういうものじゃほんなもんじゃない。物を上げなくても、金を上げなくても、どうしてやらなくても、ああしてやらなくても、お互いの心が交流し合う。そういう仲を、私共は、育てさせて頂かなければならない。そのためには、お互いの、一人一人の心の中にです。和がなければならんのだけれども。それを、嫁にその後を持たせよう、真を持たせようというたって、仕方がないから、まず、それが分かった、私自身が、私の心の中に、真を持ち、和を持つ外に手はない。そして、初めの間は、気の利かんと言われても、ただその和を保たせて頂いて行くうちにです。そこから、育っていく仲というものが、本当の仲である。仲ようするという事は、そこの事だと、私は思う。何というても、私は、お道の信心で言う、その、真という事が、親が子を思う、こが親を思う。そういう心を真とするなら。そういう真が、赤の他人の、誰彼にでも仕えれる様になる稽古をさせて頂かなければならん。そこに、私は、神様の、御信用が頂かれる。いわゆる、身に神徳を受けて行く事が出来る。神徳を得よ、人徳を受けよと仰るのはですね、その先に、人徳は受けて行くもの。人徳を先に受けようとする。いわゆる、人間関係の、ただ、演出を持って、仲ようして行くという事だけに心掛けておる人は、もう、かえって反対にですね、神様のご信用を頂くことは出来ない。いわゆる、人間心の強い人は、お徳を受けられないというのは、それの事。神徳を、まず頂かせて貰う。その心掛けとして、おかげ頂かにゃならん。ところが、その辺のところに、非常に一つの、まぁ、難しさというものがあるんです。
例えば、子供に羊羹をやる。絶対やってはならんというのじゃない。けども、素晴らしい、そこにタイミングが生れてくる時に、その一本の羊羹が効果を生じてくる。かというて、あれが来たから、また、羊羹ばやらんなんという様な事をしよると、もう、羊羹をやらなければ、仲ようなくなってくる。羊羹を貰わなければ、もう、どうか腹けぇたごとして、羊羹ばやらっしゃらんじゃったという事になってくる。その辺の、私は、羊羹でいわば、羊羹の使い方が難しい。そこんところを、私は、成り行きというかね。時期とか事節とかとかという事を言われますが、この辺の所を、私は、心掛けさせて頂いとかにゃならんと思う。その辺のタイミングのお繰り合わせを、私は、願わなければならんと思う。もう、私はその、その辺のお繰り合わせを頂くという事が、大事だとこう思う。
一つの、例えば、挨拶一つでもです。タイミングよう、お早うございますが言える時です。まぁあの人に、お早うございますば挨拶せなんばってん、こっちを向きなさらんけん、なかなか挨拶のしようがなか。そげん時は、ほっといていいのである。けども、人間心使うて、不自然な挨拶になってしもうたりするところに、変なものが生まれてくる。だから、はぁ、あの人に挨拶でもせにゃならんと思うなら、タイミング、お繰り合わせを願うが良い。そして、自ずと、自然と、例えば、挨拶が出来る様なね、お繰り合わせを頂かなければいけん。この辺のところが、人間の世界が、なかなか難しい。もう、私自身、それを、本当にあの、難しい。ここで、皆さん、ご信者さんと、私の場合なんかは、もう先生、あげな人だという風に思いこんでござっておるから、一つも問題が無いのだけれども。さぁ、他所の先生方が見えたりなんかすると。やはり、つい、人間心使う。その人間心使うのが、かえって、変な、可笑しなものになってくる。人間心使わんで出来る様なお繰り合わせを頂かなければならんと思うですね。どうぞ、一つ、自分の家庭のだけで、私の場合、現在、もう合楽の教会。私を中心として、ご信者さん、皆さんとの中には、家庭に不和のなきが元という様なおかげを頂いておる。確かに、そうです。だから、それで良かろうごたるばってん。ほんなら、今日の御理解で言うと、それだけじゃいかん。隣接教会の仲も、やはり、ようなからにゃいかん。それには、私が、少し、人間心を使い過ぎよるようなものを、私は感ずるんです。これは、本当に、お繰り合わせを頂いて、おかげを頂かなければいけんなという風に、分からせて頂きよります。どうぞ、信心は、家庭に不和のなきが元なり。それは、家庭だけの事じゃございません。もう、自分の隣近所の仲もようなからなければいけません。それには、まず、自分自身の心が、真でなからなければならん。どのような場合でも、和でなからなければならない。相手が、あちらがあっちじゃけん、こっちもこっちといった様な場合、様な考え方は、もう信心じゃない。相手が、どうであっても、真だけは、はずしちゃならん。そこから、お繰り合わせを願って行くところにです。また、次のタイミングの良いおかげを頂いて、お互いの心が、交流し合う、仲のようなっていく仲が育って行くという風に感じるですけどね。どうぞ。